日本で始めて京都に市電が通り、京都博覧会が開催され、平安神宮ができ、西洋文化が一気に開花した華やかな時代、明治30年、河原町三条下ルの細い路地で高橋銀次郎が「東洋亭ホテル」を創業しました。 その名前の由来は、京都や日本の枠の中に納まらない “東洋”の雄大なイメージでした。 |
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開業間もない京都ホテルの厨房で料理の修業を積んでいた高橋銀次郎は、 「あまりにも高すぎて町衆には食べることができない西洋料理を一人でも多くの町衆に食べてもらいたい」と自分の店を出すことを決意しました。 「本当に美味しい料理を多くのお客様に手ごろな料金で食べてもらいたい」 今もこの高橋銀次郎の創業の精神を大切に引き継いでいます。 当時は今のように簡単に素材を調達(ちょうたつ)できず、 自分の気に入るものを自分の足で探し、徹底的に吟味し、納得いかないものは受け入れませんでした。 また、レンガの石炭ストーブ等ほとんどの調理設備が手作りでした。 西洋料理の基本をくずさず自信のある料理だけ出しました。 東洋亭の料理は、基本に忠実に決して手を抜かず、コツコツときちんと作り上げることを守っています。 流行に敏感な京都の町衆は、 「美味しい!東洋亭に行ってみ!今まで食べたことない西洋の味を食べられる!」と口から口へと評判が広がりました。 まずは、美味しくなければお客様には来ていただけません。 そして、見た目の楽しさ、風味などがプラスされて、食べた後の感動を呼び起こします。 創業当時のように感動を呼ぶお店でありたいと考えています。 銀次郎の妻サタさんは料亭の仲居さんでした。 独立後は、お客様のおもてなしから店の運営を仕切りました。 しかし、西洋料理の作法ついては素人で、誰も教えてくれる人もなく、猛勉強をして独学で習得しました。 その姿勢が多くの東洋亭ファンをつくったそうです。 人間的な温かさのエネルギーと優しさでお客様をおもてなしすること、東洋亭の基本的な考え方です。 昭和天皇即位の記念事業の一つとして河原町通りの道幅が拡張され、これを機会にホテル事業をやめて、レストラン事業に情熱の全てを傾けました。 新店舗は3階建ての西洋つくりで、当時では、画期的でした。 変えてはいけない伝統的なものと変えていかなくてはならないものとをしっかりと見極めながら進化していく、それが東洋亭の姿勢です。 銀次郎は、飲食業界の発展と地位向上を望み五条料理組合を結成し、初代組合長を努めました。また、当時「氷」の値段が大変高く、皆が困っているのを見るや自ら氷製造業を始め、各飲食店に安い氷を提供しました。 このような活動が認められ、また安心で美味しいという評判が高まり、昭和3年昭和天皇即位の御大展に料理提供を拝命しました。 飲食を通じて、お客様や地域の人と関わりあいながら、社会にお返しする仕事。 それが私たちのすばらしい仕事です。 |
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